
第4回 草取り祭
〜今年最後の草取りを終えて〜
ついに御神田での第4回目草取り祭、そして今年最後の草取り祭を無事に完了することができた。新しく来ていただいた方々や、毎回参加してくださる方々も含め、多くの人々が集い、裸足で田んぼに入り、毎週に手で丁寧に草を取る、尊いひとときとなった。
草取りの体験を通じて、心身ともにアーシングされ、お米を育てる大変さや食事の尊さ、自然の恵みを少しでも体感していただけたのであれば、この上なく嬉しいことである。日常生活の中で薄れがちな「食への感謝」や「ありがたみ」という感覚が、草取りを通して蘇り、暮らしへの感謝の気持ちが自然と湧き上がってくるのは、ありがたい導きである。

草取りがもたらす内なる変化
田んぼの中に入ることでしか味わえない感覚がある。ほんの一時間でも体験していただければ、それが人生のきっかけや内なる変化の種となることもある。今回の草取り祭は、そうした気づきの場であった。
マヤ暦の元旦、7月26日。
新しい年の始まりの日であり、この節目に草取りが一区切りを迎え、今年の草取り期間をやり尽くし、あとは見守るのみとなった。最後まで草と向き合い、草たちとの対話を味わいながら、田んぼの中で過ごした1ヶ月半を振り返り、感謝の気持ちを込めて草を取らせていただいた。
自然農が証明すること
ありがたいことに、すぐ田んぼに入れる環境があり、感じ、味わい、地球とともに生きる神秘を体験できているのは、田んぼの近くに身を置いているからこそであり、草取りという営みは、自らが手で植えたからこそ学びがあるもの。第1回から第4回までの草取り祭は、何か新しい自分を開く瞬間のように思える。
家に戻って涼んでいたところ、祖母が祖父とともにこう言った。
「どんな肥えを撒いたの?いい感じに育ってきてるね」と。
もちろん、実際には肥料(こえのこと)は一切撒いていない。それにもかかわらず、まるで肥料を撒いたかのように稲が立派に育っている姿に、90歳になる祖父母が驚きと感動の声をあげていた。それは自然農でもここまで育つのだという証明であり、彼らの新たな気づきとなった瞬間である。
自分が米づくりに携わっているからこそ、祖父母が自然栽培の可能性に触れ、新しい1ページを感じてくれたこと、本当にありがたいことである。
肥料を使わずとも稲は育つ。
その事実を目の当たりにしてもらえたことは、何よりの導きである。
世代を越えてつながるもの
そのやり取りを母も隣で聞いていため、親子三世代が同じ場で同じ言霊を共有できたことは、マヤ暦元旦にふさわしい出来事であり、何かの始まりを示唆しているのかもしれない。
今朝のこの出来事は、自分にとって大きな喜びであり、地球と共に、新たな道が開かれたと信じて。
ありがとう。



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